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5話 一途なひまわり・後編《6》

Author: 砂原雑音
last update Last Updated: 2025-05-11 14:49:31

大きな看板に向日葵畑の迷路全容が描いてあった。

っていっても結構広くて、覚えられそうにはないけど。

「結構広いですねー」

「入り口二つに、ゴールがここか」

「ここの真ん中でスタンプ押して、ゴールに向かう感じですね」

「別々の入り口から入って、競争する?」

「ええっ?」

じりじりと焼けるような眩しい日差しの中、見上げた片山さんは今日初めての意地悪な顔。

蟀谷に汗が滲んでいた。

「スタンプ台のとこに先に着いた方が勝ち。勝った方が、一つお願いごとが言える」

お昼が近くなって、わんわん、と耳鳴りがしそうなくらい気温が上がってる。

片山さんは、勝ったら何を言うつもりなんだろう。

それが少し怖いけど

「いいですよ」と答えた私はチャレンジャーだと思う。

「じゃ、私はこの入り口から。片山さんは向こう。よーい……スタート!」

「えっ? うわ、ずるい! 俺が向こう着いてからにしてよ!」

繋いでいた手を離して目の前の迷路の入り口に駆け出した私に、片山さんが慌てた声を出したけど。

「片山さんのが足長いじゃないですか、ハンデです!」

顔だけ振り向いて笑った。

片山さんも急いで向こう側の入り口へと走りだす。

それを確認して、私も向日葵の群れの中に飛び込んだ。

風が吹かない今日は、湿気と熱を含んだ空気が身体や顔に纏わりついて余り過ごしやすいとは言えない。

けど、背の高い向日葵に囲まれれば少し日陰に恵まれて、幾分暑さが和らいだ。

それは私の背が低いからかもしれないけれど。

走ったのは最初のほんの少しだけで、後は結局のんびりと歩きながら行き止まりになっては引き返し、また別の道を見つけてはそちらへ進む。

上を向けば真っ青な空。

あとは鮮やかな緑と黄色ばかりが目に飛び込んでくる。

平日のせいか人も殆どいなくて、迷路のどこかではしゃぐ子供の声が聞こえるだけだ。

真夏の暑さは、やがてすぐに正常な思考を奪う。

大きな迷路、もう目指す方角もわからなくなってしまった。

まるで、近頃の私の気持ちみたい。

迷って迷って、ふらふらと不安定でどうすればいいかわからない。

だけど目はいつも一人を追っかける。

「はあ、暑……どっちに行けばいいんだろ」

また、分かれ道。

自分が後退してるのか前進してるのかもわからない。

向日葵が太陽に向かって咲いている。

今私が向かう先にいるのは、太陽じゃ、なくて。

お水でも買ってから入れば
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  • 君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー   5話 一途なひまわり・後編《1》

    梅雨が明けるとひと息に気温が上がり、急ぎ足で真夏がやってきたような感覚だ。蝉の泣き声が余計に体感気温を上昇させている。朝から既に汗を掻きつつ歩く店までの道中で、神社の参道に植えられた百日紅が鮮やかなピンク色の花を咲かせていた。夏の花は発色の鮮やかなものが多い気がする。店に先日からならんでいるミニ向日葵の鉢植えも、目に眩しい黄色の花をたくさん咲かせてくれている。夏と言えば大きくて背が高い向日葵が浮かぶけれど、ミニサイズの向日葵もまた雰囲気が違って可愛らしい。向日葵は太陽を追いかけて咲くという。この子達も、小さいなりに太陽を追いかけるのだろうか。店の外に並べて陽の光の下水やりをしながら、じっと花の角度を眺めてしまった。「綾さん、そろそろオープンしましょうか」扉が開いて、一瀬さんが顔を覗かせて声をかけてくれる。「はぁい」と私が返事をしたのを確認すると、扉の真ん中にフックでかけられているプレートを『OPEN』にひっくり返してまた中へと戻って行った。私はじょうろの中の水を空にして、今日も暑くなりそうな青空を見上げる。「多分、もう見頃なんだろうな」片山さんに誘われたまま、まだ返事をしていない向日葵畑。きっと今が丁度見頃の時期だろう。ちゃんと返事をしなきゃって思ってるのに、このところの私は他のことばかりに気を取られて、正直向日葵畑どころではなく……。なんて、そんな風だと片山さんにも失礼だなってわかってるんだけど。この頃、毎日の様に閉店間際に来る女性のお客様がいる。その人は一瀬さんと片山さんの知り合いみたいで……特に一瀬さんには特別な人のようだった。なぜって、その人がまだ客席に居ても、マスターはさらりといつものように私に言う。『今日はもう、仕舞いにしましょうか』と。彼女……雪さんがマスターの目の前でカウンターに座っていても、いつもそれほど話が盛り上がってる風でもない。雪さんが話しかけて、ぽつぽつと短い会話をしては、すぐに途切れる。彼女は少し肩を竦めて、また珈琲の香りを楽しむ。そんな空気が、酷く二人に似合っていて、まるで透明なアクリル板に阻まれたように私は二人に近づくことも会話を聞き取ることすらできなかった。今日も多分、夕方になるといらっしゃるんだろうな。片山さんが作ってくれた今日の賄いも、いつも通り美味しいのにあまり箸が進ま

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